昔ながらの2度焼きクッキーとは
ロシア皇帝お抱えの製菓技師
スタンレー・オホッキー氏が
伝えたお菓子です
昔ながらの2度焼きクッキーとは・・・
「懐かしい・・・」
「昔は売ってたけど、最近は見かけない・・・」
と思われているかたが多く、
そのようなお声を良く耳にします。
確かに、昔はあちこちのパン店・菓子店でロシアケーキが製造されていたようですが、
現在は、当店の工場を含めて数社しか製造していないようです。
当店のお菓子が作られている工場では、
昭和27年(1952年)の創業以来、ロシアケーキが作られています。
下の画像は、ロシアケーキの製造を始めた頃に、
そのアイデアを描いた、昭和32年(1957年)の手書きのスケッチです。
戦後、まだ甘いものなどが貴重な時代に、
作りたいお菓子のアイデアだけが、どんどん広がっていったのだと思います。
また、お菓子に対する情熱のようなものも感じ取れます。
このスケッチは、まだまだ沢山あります。
一部をご紹介すると、
クリスマス用のロシアケーキや、
ロシアケーキ以外のお菓子もあります。
これらは、かなり古く年季の入ったスケッチなのですが、
今、あらためて見ても、本当においしそうです。
まさにロシアケーキの原点である、
素朴な美味しさが表現されています。
と言うことも、良く聞かれます。
そもそも、ロシアケーキとは、どのようなお菓子なのでしょうか?
ロシアケーキの歴史を辿ると、ひとりのロシア人菓子職人、
スタンレー・オホッキー氏が浮かび上がってきます。
ロシア皇帝お抱えの製菓技師だった彼は、新宿中村屋の創業者、相馬愛蔵氏に招かれ、
多くのロシア菓子を日本に伝えました。
昭和6年のことです。
ロシアケーキの原点は、新宿中村屋であると言えます。
そして、ロシア人の菓子職人が伝えたからこそ、
ロシアケーキと呼ばれたのでしょう。
この原点から出発して、
さきほどのスケッチに描かれたように、
多彩なお菓子に広がっていったのだと思います。
ヨーロッパでは、
手作りのクッキーにジャムや木の実などをのせて
食べる習慣があるとも聞いております。
当時の日本人にとって、
ロシアは身近な西洋だったのではないでしょうか。
大正6年にロシアから来日した盲目の詩人エロシェンコは、
日本での4年間の生活の殆どを、
相馬夫妻の世話になっていたようです。
そのお礼にと、エロシェンコはロシア料理ボルシチのレシピを教え、
また、店員の制服として、ルパシカを勧めました。
インドの王族の子として生まれ、
イギリスの支配からの独立運動に身を投じ、
イギリス政府から追われ日本に亡命した
インド人の革命家ラシュ・ビハリ・ボース氏を庇護し
本格的カリーライスを広めるなど、
大正から昭和初期の中村屋は、
創業者である相馬愛蔵氏・黒光(こっこう)婦人の
稀有な人間性のもと、とても国際的だったようです。